改革元年~1990年代~
最初に、1985年にまでさかのぼって全国紙4紙(朝日新聞、毎日新聞、読売新聞、産経新聞)が取り上げた「議会改革」の記事本数推移をご覧いただきたい。「議会改革」の記事は1990年代から拡大していったことがおわかりいただけると思う(下グラフ参照)。
本稿では、1990年代から10年ごとに議会改革の変遷を振り返る。90年以前はほとんど全国紙の記事に「議会改革」の見出しが躍ることはなかったが、90年代に入ると徐々に増え始め、特に1992年が25回と増加している。前年の1991年は9回だったので、約3倍に増えた。そして、1993年には268回と飛躍的に増えている(下グラフ参照)。
議会改革の記事が増加した理由は、当時、議会の不正が明らかになったからである
1992年9月30日に尼崎市議会(兵庫)において、議員が行政視察出張旅費を不正受給した後、返却していた事実が明らかになった。辞職勧告を受けた同議員は、議会全体にわたって不正出張が事実上の慣行となっていた実態をマスコミに暴露した。
そのことにより、全国的に尼崎市議会のカラ出張問題が報道されることとなった(その後、同市議会は「地方公共団体の議会の解散に関する特例法」の第2条による自主解散を選択している)。
実はカラ出張をしていたのは尼崎市議会だけではなかった。尼崎市議会に端を発したカラ出張問題は、全国の地方議会に波及していく。
1992年は、さまざまな地方議会(議員)の不正が明らかになり、「議会改革は必須」という雰囲気が生まれた。
特に市民オンブズマンなどの議会監視の高まりもあり、多くの議会が改革を断行することになった。具体的には、個人視察や海外視察の中止、タクシーチケットの廃止、議会改革協議会の相次ぐ設置、 そして議会が持つ情報の全面公開の徹底等が断行された。
その意味で、1992年は「地方議会改革元年」と言うことができるだろう。
言うまでもなく、今は2020年である。1992年が地方議会改革元年ならば、爾来、実に28年間も議会改革に取り組んでいることになる(言い方が失礼になるが「28年間も議会改革を進めてきて、よく疲れないなぁ…」と思ってしまう)。
広辞苑によれば、改革とは、①改めかえること。改まりかわること、②(reformation)目的が国家の基礎に動揺を及ぼさず、方法も暴力的でない変革―とある。
普通に考えれば、28年もの間、なにかの「〇〇改革」を断行し続けることはできないと考える。この常識的な考えから推測できることは「多くの議会改革が惰性に流されているのではないか」という事実である。
もちろん、多くの地方議会改革は真摯に取り組まれていると思う。しかしながら、「議会改革の日常化」という現象も発生しているだろう。それは「議会改革することの目的化」とも言える。「する」という行為自体が目的となり、「なぜ」「何のために」という本来の目的が不確かになれば、改革は形式化、形骸化する。
さらに、逆に言うと、28年間も議会改革を続けている事実は、その間に目に見える成果が表れていないことの裏返し、とも言えそうだ。
これらは地方議会に携わる諸賢への問題提起である。
さまざまな疑問符が浮上~2000年代~
2000年代もいくつかトピックスがある。その中で「2007年」に注目する。
2007年の議会改革の記事は1025回と、前年の317回と比較すると約3倍も増えている(下グラフ参照)。この背景を考える
第1に、2006年12月に発覚した目黒区議会(東京)における政務調査費の不正使用、もしくは私的流用の問題がある。同問題は全国的に報道されることになり、某会派全員が政務調査費を返還した上で辞任することとなった。
政務調査費とは、地方議会の議員が政策調査研究等の活動のために支給される費用である(現在では政務活動費となっている)。2000年に地方自治法が改正され、議会の議員の調査研究に必要な経費の一部として、議会における会派または議員に対して「政務調査費」を交付することができることになった。
当時、目黒区議会の何人かの議員は政務調査費をガソリン代、洗車代、整備代をはじめ、研修費(バス旅行)や日帰り旅行での食事代に私的に使っていることが領収書から判明した。
また、当時の区議長は年賀はがき代やガソリン代、ボディーピロー(腰当て用クッション)代まで政務調査費を使っていることが明らかになっている。
目黒区議会における政務調査費の目的外使用は、同議会だけに限ったことではなかった。実は他の議会においても見られる現象であり、全国的に政務調査費に関する住民監査請求や訴訟、刑事告発が増加した。その結果、議会改革が求められるようになった。
第2に、前年(2006年)の夕張市(北海道)の財政破たんも影響している(夕張市は2006年6月に財政再建団体入りを表明し、翌年3月に再建団体となった)。
夕張市議会が執行機関への監視機能を欠いていたことも破たん要因の一つとして責められるなど議会の責任論や無用論が登場するようになった。
また、福島、和歌山、宮崎の3県などで起きた官製談合などの不祥事により、議会(議員)は執行機関の不正を監視できなかったとして疑問符がつけられることになった。
これらの出来事により、全国的に議会の役割に対する注目が集まり、議会改革を求める記事が多くなっている。
そのほか少数ではあるが、議会基本条例との関係で議会改革の記事も見られる。議会基本条例の存在が議会改革を促すという趣旨の記事も少しは見られる。
議会基本条例は2006年5月に栗山町(北海道)がはじめて制定した。議会基本条例は次回に言及する。
首長との対立が浮上~2010年代~
2011年の記事数は1719件である(2010年は838回)。特に2010年から2012年にかけて記事が多くなっている(下グラフ参照)。この理由は、当時の「首長と議会の対立」が注目されたからである。
阿久根市(鹿児島)の市長(当時)は、議会を招集しないと宣言し、一時は議会が開けない状態となった。議会を開かずに専決処分を乱発し、市長と議会の対立が激化した。
鹿児島県は、繰り返される専決処分は地方自治法に違反するとして、議会の招集などを求める是正勧告を行った。同時に議会も専決処分の多くを不承認にした。
しかしながら法的拘束力はなく、市長は専決処分の内容を取り消すような措置はとらなかった。そのようなことがあり、最終的には市長へのリコール署名が成立することとなった。
なお、このような経緯があったため、2012年に地方自治法が改正となった。副知事や副市町村長の選任には議会の同意が必要と定められ(自治法162条)、議長に臨時議会の招集権限が付与された(自治法第101条)。
名古屋市(愛知)の事例も記憶に残っている読者は多いだろう。
当時、名古屋市は市長が公約として市民税減税や議員報酬の半減などを掲げていた。これらの公約を強引に進めようとする市長に対し議会のとの対決が起きた。市長が主導して署名活動を呼びかけ、2010年に議会解散の直接請求(リコール)が展開された。
阿久根市や名古屋市だけに限らず、防府市(山口)などにおいても市長(当時)と議会が対立し、マスコミを賑わすことになった。
このように首長の行動が契機となって、住民も巻き込み、議会との対立関係が全国的に拡散した。
新しい議会像の模索
しばしば首長と議会の関係は「二元代表制」と称される。二元代表制とは、首長と議会(議員)をともに住民が直接選挙で選ぶという制度である。しかし、当時の状況を見ると二元代表制ではなく、完全に「二元対立性」という様相であった。
二元代表制の制度に問題があるという論調もでてきた。大阪府の知事(当時)は、議会の反対で首長が公約した政策が効率的に実施できないとして、議員の中から副知事や副市長・副村長や幹部職員を任命して、首長の内閣を組織し、首長と議会が一体となって行政を運営していく「議会内閣制」を提案した。
当時の議会改革は、首長と議会の対立関係が中心であった。それは、ある意味、新しい議会像を模索していたとも言えるだろう。
次回は、議会基本条例と議会改革を考える。
(続く)
本連載「基礎自治体のための議会改革の地図」のバックナンバー
第1回:「削減ありき」でヨコ並び“地方議会改革”の歴史
牧瀬 稔(まきせ みのる)さんのプロフィール
法政大学大学院人間社会研究科博士課程修了。民間シンクタンク、横須賀市都市政策研究所(横須賀市役所)、公益財団法人 日本都市センター研究室(総務省外郭団体)、一般財団法人 地域開発研究所(国土交通省外郭団体)を経て、2017年4月より関東学院大学法学部地域創生学科准教授。現在、社会情報大学院大学特任教授、東京大学高齢社会研究機構客員研究員、沖縄大学地域研究所特別研究員等を兼ねる。
北上市、中野市、日光市、戸田市、春日部市、東大和市、新宿区、東大阪市、西条市などの政策アドバイザー、厚木市自治基本条例推進委員会委員(会長)、相模原市緑区区民会議委員(会長)、厚生労働省「地域包括マッチング事業」委員会委員、スポーツ庁参事官付技術審査委員会技術審査専門員などを歴任。
「シティプロモーションとシビックプライド事業の実践」(東京法令出版)、「共感される政策をデザインする」(同)、「地域創生を成功させた20の方法」(秀和システム)など、自治体関連の著書多数。
<連絡先>
牧瀬稔研究室 https://makise.biz/