【自治体通信Online 寄稿記事】
我らはまちのエバンジェリスト #11(福岡市 職員・今村 寛)
対話がうまくいかない、進まない―。こうしたケースは珍しくありません。まさに対話は“言うは易し、行うは難し”の典型。そこをブレークスルーするために欠かかせない「基本認識」を考えます。
うまく「対話」が進まないワケは…
前回は「対話は社会のインフラ」と書きました。
(参照記事:【公務員が関わるべき“もうひとつの公共財”】「対話」は社会のインフラ)
立場や意見の違う社会の構成員が相互に理解し、同じ方向を向いて建設的に物事を議論し、決定した事項に従い社会を営んでいくのに、「対話」という社会基盤が必要不可欠です。
しかし、「『対話』って大事だよね」と話すたびに、うまく「対話」ができない人、うまく「対話」が進まない場合への対処方法についての悩みや困りごとをよく聞きます。
「対話とは何か」と大きく振りかぶって持論を展開すると「きれいごとを言ってもそんなにうまくはいかないよ」という諦めや蔑み、理想と現実のはざまでどう取り組めばいいのかという不安の声が聞こえてくるのです。
・人の話を聞かない
・自分の主張を押し通そうとする
・強い偏見を持って接する
といった、わかりやすい「対話クラッシャー」以外にも、
・つい話が長くなる
・人の話を長く聞けない
・自分と違う意見が出ると言い返してしまう
・人の反応が気になって意見が言えない
・人の意見に流される
・自分の意見がうまくまとまらない
などスムーズに自分の内面を開き、あるいは他人の声を傾聴することができないという人は多く、かくいう私だっていつも聖人君子でいられるわけではありません。
「対話力」が未熟な私たち
しかし現実としては、自分の意見を主張し、他人の意見を聴き、その中で折り合いをつけていくのが集団で生きる我々の社会生活。ですから、そこには何らかの「話す」「聴く」スキルが必要なわけで、世の中で生きる人はみんな自己流でそれなりの「対話」らしきものに挑戦している、その成長の途上にあるのだと考えればよいと思うのです。
「対話力」が未熟な者たちの「対話らしきもの」は、当然ながら理想の「対話」にはならず、もやもやしたものが残ることもあるでしょう。
個人として未熟な部分もあれば、その未熟な部分を社会として許容している、社会としての発展途上がそのもやもやの要因である場合もあるでしょう。
私たちは、「対話」について個人としても社会としても未成熟であるという現実のもとで、「対話」による問題解決を図ろうとしているのです。
「対話」そのものを体験し、学び、体得するためのワークショップで必要なのは、まさに我々が「対話」について未熟であるという認識の顕在化です。
意外なほど人は自分の話を聞かないし、自分は人の話を聞いていない。
聴いてもらえないのはなぜか
聴いていないのはなぜか
どうすれば互いの言葉に耳を傾け
否定も断定もしないで語り合うことができるようになるのか
ワークショップはこのようなことへの気づきを与える場になっていきます。
ここで大事になるのはスキルではなく、その根底に置くべき精神論。本来「対話」とは相互の尊重と相手を理解しようとする気持ちがあれば自然と行われるものであり、技術はそれをわかりやすく表現しているだけです。
ワークショップはあくまでも仮想体験の場なので、ここで表出する「対話」の未熟さは当然のこととして受け止め、その未熟を積極的に指摘し、鍛錬していくべきものと考えます。
未熟な「対話」がもたらす不幸
問題なのは、「対話」という手法を用いて意見集約や合意形成を図ろうという場合に生じる「未熟な対話」がもたらす衝突や不満と、そこからもたらされる不信や離反、不十分な合意形成という結果です。
私はいつも「議論の前に対話を置く」ことを推奨していますが、「対話」が不十分で議論に至る前捌きが期待通りでなかった場合は議論によって導かれる結論の質に当然影響すると考えています。
「対話」が未熟な者同士が、未熟な主張をぶつけ合い、相互に理解も納得も得られず物別れに終わる。
このような事象に対して私たちができるのは、当事者の未熟さにその責めを負わせることではありません。
それは参加者同士の心の壁を取り払うワールドカフェ(カフェのようなリラックスした雰囲気の中で、少人数に分かれて自由な対話を行い、他のメンバーをシャッフルして対話を続ける対話手法)かもしれません。
あるいはグラフィックレコーディング(会議等の内容を文字やイラストを使って記録する方法)による可視化かもしれません。
対話を促進するファシリテーションが対立の回避に役立つかもしれません。
実は、誰を参加者とし、どういう議題で、どういうゴールを目指し、そのような対話の場を設けるかという、場の設定の出発点に遡っての設計にかかっている場合もあります。
私たちができるのは、個人としても社会全体としても「対話」について未熟であるという認識を持ち、参加者の「対話力」を過信しないこと。そして、「対話」がもたらす効果に現実離れした魔法のような効果を期待せず、しかしながら「対話」の持つ力を信じ、その力が最大限発揮されるよう場を設計し、その場で起こることに丁寧に目配りし、きめ細やかに対応していくこと。
「対話」が成立する要件、成立を阻む障害を正しく理解し、「対話」の成立に向けた可能な限りの条件整備と、「対話」の未熟さ故に生じる様々なトラブルから逃げずに立ち向かうことしかないのです。
「対話」を司る者として
その意味で、「対話の場」の設計者、運営者の覚悟と責任は重大です。
「対話」とは何かを理解したうえで、目的である意見集約や合意形成をどのようなかたちで実現させたいのか、未熟な「対話」による消化不良をリカバリーして目的を成就させる道程をしっかりとイメージし、あらゆる手段を用いて目的を達成するための努力を惜しんではなりません。
なぜこの局面で「対話」という手法を用いようとしたのか。
誰と誰が言葉を交わし、どのような状態になることを目指すのか。
それは「対話」という手法を用いることが最善なのか。
「対話」が未熟であったとしても、「対話」を行うことに意義があるのか。
「対話」を行わないことのリスク、未熟な「対話」がもたらす対立や不満との比較を行うことも必要です。
こうした場合には「対話」という手法だけにこだわる必要はなく、目的達成のための熱意と周到な準備に尽きると思います。
このように考えると、「対話の場」を創るなど「対話」によって何かをなそうとする者は、「対話」とは何かを正しく理解することはもちろん、我々が「対話」について未熟であることを認識することが必要です。加えて、その未熟さを何で補うかという手立てについて、未熟さの種類や段階、その表出事案に応じて考えておき、備えることができるようにならなければならないことがわかります。
一方で、「対話」は目的達成の手段として活用されるだけでなく、私たち一人ひとりが「そこにいること」を受容される、基本的人権を尊重する社会のありようととらえてその価値を論じることもできます。
「対話」の力を信じ、「対話」で世の中を変えていきたいと考え、行政と市民を「対話」でつなぐ“まちのエバンジェリスト”としては、こうした「対話」への理解自体が未成熟であることについても自覚し、その理解の成熟に向けて、人一倍「対話」について考え、学び、習得しなければならないと思っています。
(「《“遠ざかるゴール”を追いかけるな》対話ができる自治体職員を育てるには」に続く)
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今村 寛(いまむら ひろし)さんのプロフィール
福岡地区水道企業団 総務部長
1991年福岡市役所入庁。2012年より福岡市職員有志による『「明日晴れるかな」福岡市のこれからを考えるオフサイトミーティング』を主宰し、約9年間で200回以上開催。職場や立場を離れた自由な対話の場づくりを進めている。
また、2012年から4年間務めた財政調整課長の経験を元に、地方自治体の財政運営について自治体職員や市民向けに語る「出張財政出前講座」を出講。「ビルド&スクラップ型財政の伝道師」として全国を飛び回る。
好きなものは妻とハワイと美味しいもの。2022年より現職。
著書に『自治体の“台所”事情~“財政が厳しい”ってどういうこと?』(ぎょうせい)、『「対話」で変える公務員の仕事~自治体職員の「対話力」が未来を拓く』(公職研)がある。財政担当者としての経験をもとに役所や公務員について情報発信するnote「自治体財政よもやま話」を更新中。