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「法的なものの考え方」を探して#1(自治体法務ネットワーク代表・森 幸二)
「ハラスメント政策」の課題~前編

「平等の価値」を通してハラスメント論を見つめ直すと…

    プロフィール
    森 幸二
    《本連載の著者紹介》
    自治体法務ネットワーク代表
    森 幸二もり こうじ
    北九州市職員。政策法務、公平審査、議員立法などの業務に携わり、現在は議会事務局政策調査課長。自治体法務ネットワーク代表として、全国で約500回の講演。各地で定期講座を実施中。著書に『自治体法務の基礎と実践』(ぎょうせい)、『自治体法務の基礎から学ぶ指定管理者制度の実務』(同)、『自治体法務の基礎から学ぶ財産管理の実務』(同)、『1万人が愛したはじめての自治体法務テキスト』(第一法規)がある。2023年10月に『森幸二の自治体法務研修~法務とは、一人ひとりを大切にするしくみ』(公職研)を出版。

    社会には多くの深刻な課題があります。自治体においては、それらの課題を解決するために多くの知見や情報を収集し、それを道具や材料として方針や政策の方向性を決定しなければなりません。しかし、今、私たち自治体職員が持っているその「道具」や「材料」は、十分なのでしょうか。自治体向け法務研修等を500回以上行った実績がある自治体法務ネットワーク代表の森 幸二さん(北九州市職員)が、自治体職員のみなさんが、日々向き合っているいくつかの「人そのもののありよう」についての課題、具体的にはさまざまなハラスメントを「法的なものの考え方」から検討します。いまの政策や方針が忘れているものを見つめ直してみませんか?

    はじめに

    法律や条例は、法として共通の目的を持っています。それは、平等な社会を実現することです。あらゆる法の目的は「平等」なのです。法は「正義」という言葉と結びつけて語られることも多いですが、その正義とは「平等」のことです。
     
    「平等」について考えることは、結果として、多くの人が「おかしい」と思っているのに、社会全体の雰囲気や流れの中で、誰も疑問を出せなくなっている事柄や、「みんなはそれでいいかもしれないけれど、私はどうなるの?」と不安な思いを抱えながらも、声を出せない人たちを見つける作業でもあります。
     
    「何が平等なのか」という価値をとおして、ものごとを考える。それが、自治体職員に必要な「法的なものの考え方」なのです。なお、本稿は私見です。

    平等について考えることは「声を出せない人たち」を見つける作業

    この連載では、自治体職員のみなさんが、日々、向き合っているいくつかの、人そのもののありようについての課題、具体的には、さまざまなハラスメントを、「法的なものの考え方(何が平等なのか)」という道具で、あらためて検討し(直し)てみます。

    今の政策において、「こう考えるのが当然だ」とされているものとは、「平等」の分だけ、少し違ったアプローチや結論になっています。

    まずは、ハラスメントについての現在的な理解を法的に、つまりは、平等に考えるとどのように評価することになるか、総論的にお示ししたいと思います。

    一緒に考えながら、読んでみてください。

    ハラスメント論の課題①
    議論をさせない・異論を挟ませない

    私たちは、ハラスメントについて話すとき、細心の注意を払って言葉を選びます。自分の発言に対する当事者の反応や社会の一部の人たちの受け止め方次第では、厳しい批判を受ける恐れがあるからです。恐れだけではなく、現にその場面を何度も目にしています。

    よって、ハラスメントに関する自分の考えや疑問を述べるための安定した場所や時間を得ることは極めて難しいという現状が生まれています。

    ハラスメントによる被害(その中には主観的な「被害」も含まれています)の解消を望んでいる人たちやその「被害者」の救済に関わっている専門家の見解(「定説」と呼んでおきます)に、理解を示し、そのまま自分の意見にする場合は、積極的に発言の機会が与えられます。それが、表面的な、形式的な、面従腹背的な理解であっても、また、発言(自分の意志や志の発露)であるとはとうてい評価できないものであっても。

    むしろ、「定説」を理解(それが理解と呼べるものかどうかは別として)し、「言ってはいけない言葉」を覚えることが、必要な知識だとされているきらいもあります。

    一方で、「定説」に反する意味の言葉が含まれている意見を発することは、その動機が、真摯なものであったとしても、決して容易なことではありません。「定説」側からの手厳しい指弾は、時に、発言者の意図を問題にしないからです。

    言葉のすり合わせによって、批判の対象を機械的に選びます。自分たちの主張を実現するため、また、そのハラスメントについて固有の知見が必要な専門的かつ閉鎖的領域であることを確立するために、論や意図の良否を問わず、自分たちの考えに合わないものには「不見識」のレッテルを張る傾向がないとはいえません。

    このままでは、「××ハラ」が、社会をよくするためのものではなく、一般の人にとっては、とにかくそれに該当する言動を行うと指弾を浴びるという、理解を伴わない一種の恐怖感を持った言葉になってしまう可能性があります。言葉による、課題についての本質と一般性の喪失、そして、主体性のはく奪が行われるのです。専門家や活動家しかそのことを語る資格がないという「おかしな」状況が生まれかねないのです。

    でも、それは、社会全体にとって、また、問題の解決を望む当事者の人たちにとっても、決して幸福なことではないと思います。「定説」をうのみにするような人には問題を解決する意思も力はないはずだからです。

    一方で、無理解や偏見によって苦しめられている人たちを助ける心と力、そして、何が平等であるかを見抜こうとする意思がある人は、当然のように、「定説」に対して、「どうして?」、「必ずしもそうではないのでは?」と疑問を持つはずです。彼らを、そして、社会全体を信じて、いろいろな人にいろいろな場面で、ハラスメントについて、発言の機会をもっと与えるべきではないでしょうか。

    関係者や専門家の意見をそのまま自分の考えにするのではなく、みんな勇気を持って自分の考えを持ち、いろんな人の意見を聞く必要があるはずなのです。

    ハラスメントなどの問題における「本当の問題」のひとつは、そこにあると思うのですが、みなさんはどう考えるでしょうか。

    ハラスメント論の課題②
    だれが「××ハラ」を決めている?

    そもそも、ハラスメントが何であるのか、何がハラスメントであるのか、ハラスメントという概念は何を目的として何を説明する道具なのか、ハラスメントに当てはまる行為であるかそうでないのかでなぜ評価が変わりえるのか、そして、ハラスメントという言葉自体が必要なものなのかどうかは、誰かが学問的、政策的に決定すべきものでも決定できるものでもないはずです。社会全体の合意か憲法的なレベルでの人権論の中で、育まれて形成されるべきものです。

    個別具体の課題の解決を目的とした政策論だけで、「人を傷つける行為であり人として許されない行為=ハラスメント」の範囲を決められるわけもないのです。
     
    とても大きな問題なのは、それぞれのハラスメントに主体的に関わっている人たち(専門家など)の多くが、「そこ(そのハラスメント)」しか見ていないことです。
     
    あるハラスメントの範囲をで囲ったとしたら、そのの中については、専門的な見解によってあらゆる問いに答えられるのですが、なぜそれだけをで囲わなければならないのか、という問いには、そのハラスメントを主張する人たちは答えを返すことができないでしょう。そもそも、そのような問いに答える必要性は感じていないと思われます。

    専門家は、社会全体を、自分が関心を持つ専門領域のの中に引き込んで、の外とは遮断してハラスメントを語るのです。だから、誰も「定説」に対して、意見を持つことができないのです。それは、「1+1=2」のように当然の帰結です。

    「ほかの事柄は関係ないから、とにかくこの行為がいけないことかどうかだけ答えてください。異論はないのですね。よかった。これで、あなたと『××ハラスメント』が共有できましたね。今日から、あなたも一緒に『××ハラ』のない明るい職場と社会を目指しましょう。」これが、現在における「××ハラ」と呼ばれるもののありようについての法的な評価です。

    社会におけるたいていの事柄は、ほかのものとの比較や相対的な価値を抜きにして考えれば、どれも重要であるということになってしまうはずです。

    社会全体におけるそのの価値や意味を考えずに、特定のを主張するということは、最終的には、社会におけるあらゆる課題や社会そのものを全体的にで囲うという作業に行き着くはずです。

    「人権論」に昇華させましょう!

    しかし、法的には、「なぜそれだけをほかのものと分けなければならないのか」が最も重要な問いなのです。「平等」という考え方がそこにはあります。

    「ハラスメント」と現在では呼ばれている職場などにおける嫌がらせを「正しい方法と考え方」によって失くすためには、それを一般化して人権論(あらゆる場面で人を大切にするための議論)に昇華させるという法的な作業が必要です。

    現在における「ハラスメント定説」は、その「昇華」の過程を通過しておらず、法的には未熟な一面を持っていると考えられます(「ハラスメント定説における法的未熟」)。そのハラスメントさえ解決すれば、他のことは眼中にないとも思えます。

    その法的な未熟さが、ハラスメントを解決しているように見えて、実は、被害を別の立場にいる人に付け替えていること(付け替え)やハラスメントを解決する過程において、他者を顧みないこと(無配慮)に繋がっています(「ハラスメントの定説における付替えと無配慮」)。

    ハラスメントを解決することが、「ひとりを救うために別のひとりを貶めている」ことにしかなっていない場合も少なくないと私は考えています。
    (「マタハラにおける『法的未熟』」に続く)


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