森 幸二もり こうじ
北九州市職員。政策法務、公平審査、議員立法などの業務に携わり、現在は議会事務局政策調査課長。自治体法務ネットワーク代表として、全国で約500回の講演。各地で定期講座を実施中。著書に『自治体法務の基礎と実践』(ぎょうせい)、『自治体法務の基礎から学ぶ指定管理者制度の実務』(同)、『自治体法務の基礎から学ぶ財産管理の実務』(同)、『1万人が愛したはじめての自治体法務テキスト』(第一法規)がある。2023年10月に『森幸二の自治体法務研修~法務とは、一人ひとりを大切にするしくみ』(公職研)を出版。
自治体向け法務研修等を500回以上行った実績がある自治体法務ネットワーク代表の森 幸二さん(北九州市職員)が、自治体職員のみなさんが日々向き合っているいくつかの「人そのもののありよう」についての課題、具体的にはさまざまなハラスメントを「法的なものの考え方」から検討します。今回は「女性活躍」について。法的なものの考え方、つまり正義や公平の視点からこの問題を再検討すると「もう一つの見方」もできるようです。
はじめに
今の社会には、女性がいきいきと働くことができる場所や機会をもっと広げなければならないという問題意識が存在するようです。
その前提となっているのが、女性の多くが、自らの能力を発揮できるしごとに就くことができていないという「事実」です。
この「事実」を改善していく手段として、自治体や企業においては、組織の中でその存在が認識されやすく、また、社会の注目を得やすい企画や新規事業などの部署に女性を充てることが進められているようです。
ここでの「事実」を自分のこととして自覚し共有している女性たちも、このようないわゆる「花形」部門を希望する傾向があるようです。
「事実」と事実
しかし、例えば、自治体のしごとの場合、住民生活を支えているのは、庁舎や公の施設における窓口の部署です。また、自治体組織を滞りなく機能させているのは、会計、法務、庶務などの内部管理のしごとです。
この事実(ここにカギかっこは要りません)は、これからも変わらないし、変わるはずもないし、変えようもないと思います。
だから、「3階(企画・新規事業部門)」だけではなく、「1階(窓口部門)」も、女性の能力を活かすのにふさわしい場所なのです。
企画部門のほうが窓口よりも、自治体職員としての志を実現し、能力を発揮する場になじむなどというのは、事実ではなく、「事実」、つまり、何かの結論を導くためのひとつの見方であり、一部の認識にすぎません。
どの部署にいるから活躍しているとか、そうでないとかいう考えは意味を持ちません。今までも、今でも、どこに所属していても、女性職員は自分を活かし、住民のために役立っているのです。このことは、民間企業でも同じであるはずです。
それが、分からない人たちがいます。また、それを認めることが自分にとって不都合な人たちもいるようです。
けして「事実」は事実になれない
自治体において、窓口や内部管理のしごとをそつなくこなすのに必要となる、いわゆる「事務屋」としての能力に欠け、それを克服する努力もしようとせず、それどころか、「つまらないしごと」だと軽く見て、目立つしごとばかりしたがる女性職員が仮にいたとします。仮に。
そんな彼女を活躍している女性職員の象徴であるかのように扱い、大きな評価を与えるとするならば、それは、ガラスの靴をシンデレラにではなく、シンデレラの姉たちに履かせることを意味するでしょう。あるべき物語が変わってしまいます。
『姉』が評価を得たり、管理職の地位に就いたりしたとしても、多くの心ある女性は彼女を支持し、自分の目標だと位置づけることはしないと思います。
彼女の活躍は「事実」であり事実ではないからです。
『姉』が教育的に(時には壇上で)語る経験談を、自分が見聞きした彼女のそこに至る過程を思い浮かべながら、複雑な思いで聴いているのではないかと思います。
管理職を目指さない女性は、意識が低いからではなく、目標になる女性の管理職(ガラスの靴を履いたシンデレラ)に巡り合う機会がなかったことも原因ではないかと考えてみる価値はありそうです。
今、問われているのは?
だれも、『姉』には憧れないはずです。ガラスの靴を履けば、シンデレラになるわけではありません。シンデレラがガラスの靴を履くのです。どんな場所でどんな靴を履いていても、姉は姉であり、シンデレラはシンデレラなのですから。
心ある女性に、「私も『姉』にならないと活躍できないのかしら」と躊躇させるような環境が仮にあるとするならば、今日の午後から、それが無理なら明日(明日が日祝日ならあさってから)にでも、変えていかなければならないでしょう。
『姉』が、「私のようになりなさい、私の後ろをついてきなさい」などと言うのは、この上なく迷惑なことです。
社会において、本当に女性の能力を活かすことは、まず、ガラスの靴を履いているシンデレラの姉が、シンデレラに履かせるために、その靴を脱ぐことで開始されるはずです。
正義として、常識として、人として
地位的な立場を得ることこそが女性として社会で活躍することだと主張する人たちもいます。しかし、いったい何の根拠で、どんな人間観や社会観で、管理職や政治家や研究者である女性たちが、スーパーマーケットのレジ担当の女性や家庭で子どもや親の世話をしている女性よりも社会的に価値があるなどと考えるのでしょうか。
それぞれのしごとに一生懸命取り組んで、そこにやりがいを得て、さらには、その場所に居続けようとする女性を「意識が低い」などと評価することは、法的には、つまり、正義として、常識として、人として、断じて間違っています。それは、彼女たちを信頼している人たち(自治体においては住民)に対する侮蔑であり、背信です。
このようないびつな女性活躍の主張が、その内容に合わない女性たちの現状を貶めていること(活躍しているのに活躍していないことする)に気づくべきです。
女性活躍の問題において真に問われているのは、相対的な男女格差ではなく、社会において一部の人が持っている誤った職業観ではないでしょうか。
「活躍している女性職員」の真影
靴だけではなく、人が自分に似合う服を着るためには、ふたつの大きなハードルがあります。ひとつ目は、自分がどんな服が似合うのか理解すること。そして、ふたつ目は、その服が、自分の着たいと思う服ではなかったとしても、その似合う服のほうを選ぶことです。
ですから、似合う服を着ていることは、人として大切な「自己認識」を持っていることの表われです。単なるセンスの問題ではなく、人格の一部です。
窓口でしごとをしている女性職員をはじめとして、社会のそれぞれの分野で堅実に、真摯に、その役割を果たしているみなさんは、それぞれに違う装いですが、みんな似合う服を着ているように思います。景色に溶け込んでいて、とても涼やかです。
でも、そうでない人、つまり、「この服を着なければ気が済まない人たち」もいるようです。その人がいる場所は、決して、まちの一部にも、庁舎の一部にもなりえません。天井がガラス(【脚注】参照)でできている「別の場所」です。ガラスの靴が手に入らないシンデレラの姉やガラスの靴を脱がされたシンデレラの姉には、どの場所にいても、本来とは別の意味で、その天井がガラスに見えるようです。
【脚注】ガラスの天井(Glass ceiling):能力や実績があっても女性等が一定の職種から排除されたり、一定の職位以上には昇進させようとしない明文化されていない暗黙の慣習のような「見えない障壁」を指す比喩的表現。米国の企業コンサルタントが提唱した。
「女性活躍」の「活躍」とは、社会の(誰かの)役に立ち、それを自分の幸せだと感じることができる日々を過ごすことです。目立つことではありません。もちろん、これは女性に限ったことではありません。それを誰に教えられるでもなく理解しているのが法的なシンデレラです。
そんな女性の活躍をしっかりと認めたうえで、ガラスの靴を履く機会を与えるのが組織や社会の正しい役割ではないでしょうか。
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