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「法的なものの考え方」を探して#2(自治体法務ネットワーク代表・森 幸二)
「ハラスメント政策」の課題~後編

マタハラにおける「法的未熟」

    プロフィール
    森 幸二
    《本連載の著者紹介》
    自治体法務ネットワーク代表
    森 幸二もり こうじ
    北九州市職員。政策法務、公平審査、議員立法などの業務に携わり、現在は議会事務局政策調査課長。自治体法務ネットワーク代表として、全国で約500回の講演。各地で定期講座を実施中。著書に『自治体法務の基礎と実践』(ぎょうせい)、『自治体法務の基礎から学ぶ指定管理者制度の実務』(同)、『自治体法務の基礎から学ぶ財産管理の実務』(同)、『1万人が愛したはじめての自治体法務テキスト』(第一法規)がある。2023年10月に『森幸二の自治体法務研修~法務とは、一人ひとりを大切にするしくみ』(公職研)を出版。

    「『ハラスメント政策』の課題」の後編では、マタニティー・ハラスメント、いわゆるマタハラを例に、定説、つまり現在におけるハラスメント論やそれに基づくハラスメント政策の法的未熟(付け替えと無配慮)について考えてみましょう。

    「マタハラを解決した職場」の忘れもの

    育児休業中のXさんが、赤ちゃんを連れて職場にやってきました。みんなが、しごとの手を止めて、Xさんを囲みます。赤ちゃんの顔をのぞき込んだり、Xさんにねぎらいの言葉をかけたりしています。
     
    この職場はとても忙しく、みんな年間100時間以上、時間外勤務をしています。そのこともあって、Xさんが育児休業を申請したときには、課長が思いやりのない言葉や否定的な態度をXさんに示してしまいました。マタハラの問題として職場のみんなが課長を非難し、Xさんに味方した経緯があります。
     
    やや遠くから、Xさんを囲むその光景を見ているひとりの女性職員がいます。彼女は、医学的に妊娠できないことが確定しています。

    彼女は、自分がいちばん欲しいものを、見る必要もないのに目の前で見せられて、周りがそれに祝福している「その」時間を、どのような気持ちでやり過ごしているのでしょうか。そのことを考える人はこの職場には誰もいません
     
    かつては、管理職による心無い言動に傷つけられたⅩさんですら、彼女の気持ちに寄り添うことはないのです。Xさんはハラスメントの被害者として、自分のつらい経験からいちばん学ぶべきこと、つまり、「人を傷つけるということがどれほどいけないことであるか」を学んでいないのです。「自分が受けたハラスメントを主観的に主張する人」で自己完結してしまっています。
     
    好意的に評価しても、「私が上司になったら、私のような経験をさせないように、気持ちよく育休を取得させてやろう。そういう課長になろう」が、彼女の限界なのでしょう。そこで止まってはいけないのに。
     
    仮に、この職場に「彼女」の気持ちを考える(ことができる)人がいたとしても、Ⅹさん(の育児に関係する行為)をたしなめることは、「マタハラ」だという批判を受けかねません。彼女はマタハラの被害者、ひいては、この職場における「救われるべき人」という「地位」と「資格」を得ているからです。

    現在のハラスメント論・政策の限界

    社会全体におけるマタハラというハラスメントにおける定説や事例に関わった人たちがマタハラを人権論に昇華できていれば、この職場には、課長のⅩさんへのマタハラを通して「人の気持ちを考えて行動する」という職場風土が自然に根付いているはずです。
     
    Xさん自身が子どもを職場に連れてくることを自重する(しないまでもしようと考える)か、職場の誰かが、「Xさん、子どもができない、〇〇さんのことも考えようよ」と素直に言えたはずです。それに対して、Xさんも自分の思慮の不足を、やはり素直に反省したでしょう。
     
    それができないのが、そこに至らないのが「マタハラ」をはじめとした現在のハラスメント論やハラスメント政策の限界であり方向性の誤り、つまり「法的な未熟さ」なのです。
     
    そして、彼女はXさんが担当していたしごとのために、今日も残業をするのです。 

    「法的な理解」が足りない!

     妊娠・出産としごとを両立しようとする職員は、それを阻んだり、批判したりする人に対して、それが、「マタニティー・ハラスメント」であることを主張できます。誰かが昔、彼女と同じ境遇にいた人たちを救うためにその言葉を作り、広めてくれたからです。
     
    しかし、不妊に悩む職員は、「私の気持ちも考えて、行動してほしい」とは、とうてい言いにくい状況にあります。職場に赤ちゃんを連れてくることは、現在の定義において、「マタハラ(あるいは何らかのハラスメント)」に該当しないからです。祝福の輪の中心にいる彼女をマタハラから救った人たちは、不妊に悩む彼女のことは眼中にないのです。彼女がどんなに傷ついているのかは知らないし、仮に知っていたとしても「マタハラ」さえなくなれば彼女に関心は払わないでしょう。
     
    それがいけない行為であるという社会的な評価付けが済んだことを表す「言葉(「マタハラ」のような)」が存在しないからです。
     
    もし、不妊に悩む人が、自分の気持ちを訴えようとしたら、初めから自分の言葉でその正当性を起こし出して主張しなければなりません。とても困難な作業です。およそ、今の彼女には理解者は存在しないでしょう。
     
    一方で、産休や育休に対する無理解のような既存のマタハラの被害にあった人は、「それは、マタハラです」、「マタハラは止めてください」の一言で目的を達成するためのきっかけをつかむことができます。自分の利益を主張するための使いやすい道具としての言葉が用意されているのです。
     
    社会には、「言葉の理解」はあっても、「法的な理解」が、足りない(未熟な)のです。

    あのことやあの人のことも考える

     「マタハラ」のように、ひとつの言葉ができると、それに当てはまるかどうかだけが課題とされます。でも、ハラスメントの定義など、どうでもよいはずです。「正当な理由もなく、人を傷つける行動なのかどうか」が本当の問題なのですから。
     
    言葉(ハラスメント)があって、中身(人を傷つける行為・不快にする行為)があるのではありません。中身があって、その中身について共通の認識が成立し、そのうえで、それを表す言葉・定義がないと不便なので手段や方法として言葉が生み出されたのです。ハラスメントを防止するために必要なのは、その中身についての理解であり、言葉や定義についての理解ではないはずです。
     
    にもかかわらず、ハラスメントに限らず、言葉が生まれると、その言葉だけが社会の関心を集めます。そして、問題が、ハラスメントであるかどうか、定義に当てはまるかどうかにすり替わります。
     
    社会の中で自然に発生した言葉ではなく、「ハラスメント」のように、意図して作られたひとつの言葉(造語)は、ひとりの人を救い、同時に、別のひとりの人をその言葉ができる前よりも傷つけることにもなり得ます。というより、構造的に必ずそうなると言い切ってもかまわないと思います。
     
    なぜなら、誰かを救おうとした言葉に当てはまる人とそうでない人とを「意図して」分けてしまうからです。言葉の製造過程においては、「そのことだけ、その人のことだけ」を考えているからです。

    そうでない人が救うべきでない、救われなくてもよい人であるということではないはずなのに。現在におけるマタハラは、少子化の進行を社会的な要請から食い止めようとする政策に支えられた、子育てをする人たちの利害を代弁・実現するための道具なのではないでしょうか。そこに、法的な考え方があるのかどうか、私には分かりません。
     
    一方で、「育休を取得する職員に理解を示さないのと同じくらい、不妊について配慮のない言動をする職員は人を傷つけているのではないですか」という問いかけをするのが法的な考え方です。言葉の問題ではなく。
     
    いつも「そのことやその人のことだけを考える」のではなく、「あのことやあの人のことも考える」のが法的な考え方なのです。

    (続く)


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