【自治体通信Online 寄稿記事】
我らはまちのエバンジェリスト #16(福岡市 職員・今村 寛)
組織で業務を遂行する自治体では議論や伝達といった“話法”が日常風景。立場や部署などの垣根を取り払った「対話」をする局面は、それほど多くないかもしれません。しかし、自治体職員が多様性が増し、複雑性が高まる社会課題や地域住民と向き合うとき、議論や伝達では限界が…。そこで必要になるのは「対話のチカラ」。今回は改めて対話の基礎を振り返りました。とあるお笑いコンビにそのヒントが隠れています!
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対話の秘訣は「心理的安全性」
「対話」の場に臨むうえで、よく言われるのが心理的安全性の確保。
それぞれの参加者が安心して胸の内を吐露できるように、またその言葉に込められた思いに対して他への同調や場の流れに忖度することなく素直に率直に反応できるように、誰が何を言っても許される場を創ることはとても重要です。
この心理的安全性の確保は場を運営するファシリテーターが場づくりの中で確保していくものととらえられがちですが、必ずしもそうではありません。
通常、私たちが誰かと言葉を交わすときに「対話の場」としてその場を地ならししてくれるファシリテーターなどという存在がいることはまれで、多くの場合、そこにいる者自身がその役割を担わなければならないことはご承知のとおり。
では、対話の場に臨む当事者として、どのような態度を取ればその場の心理的安全性が確保できるのでしょうか。
はじめに言葉ありき
心理的安全性の確保のために必要な態度と言えば、少し「対話」をかじったことがある人なら間違いなく「拝聴」「受容」といった単語が頭に浮かぶと思います。
相手の話を聴く。
相手の立場、考え方を否定せず、ありのまま受け入れる。
拙著『「対話」で変える公務員の仕事』(脚注参照)でも「そこにいるすべての人が適任者である」と認め合うことが大切で、誰もが周りを気にすることなく自由に自分の立ち位置を定めることができ、そのことをお互いに認め、尊重できる居心地のよさを大事にしましょう、と説いていますが、ここに大きな罠が潜んでいます。
脚注=参照記事:「自治体職員の『対話力』が未来を拓く 『対話』で変える公務員の仕事」
それは、自分が相手を受容したいという気持ちを持っていることを相手に対しどうやって伝えるか、という問題です。
「拝聴」「受容」は相手を受け止める態度の話ですが、実ははじめに言葉ありき。
まず自分が相手に対して自分自身を開示し、私はあなたに対して安心して心を開いていますよ、と示す。そうすることで初めて、相手に対して「私を受け入れてください。私もあなたを受け入れますよ」と伝えることができるのです。
しかし、そうはいっても顔も名前も知らない者同士で「対話」をはじめるときに、相手が何者かわからないなかでは、自分を受け入れてもらえるか、という不安から、自分のすべてを開示できません。
そんな中で相手に対し自分自身を開示するにはどうすればよいのでしょうか。
立場の鎧を脱いで
私は、自分が主催するワークショップの冒頭で、「自己紹介ゲーム」というアイスブレイクをよくやっています。
隣り合った方とペアになっていただき、交代で1分間ずつ自己紹介しあうという単純なゲームですが、自己紹介のなかでは「居住地」「組織」「仕事」に関することを言ってはいけない、というルールになっています。
生まれてから今までに住んだことがある場所、すべてNGです。
どんな組織に属しているか、会社、サークル・部活、出身校もダメ、地方公務員、会社員、主婦、自営業、など職業や仕事に関する情報も一切しゃべれません。
さて、皆さんは1分間何を語りますか?
このアイスブレイクで期待できるのは「立場の鎧を脱ぐ」という効果です。
私たちは普段、立場や職責に基づいて発言、行動しています。
この行動規範は、その内側にいる個人を外側からの攻撃にさらすことなく防御できる、いわば生身の自分を守る鎧となっています。
しかしその鎧は、分厚くて頑丈であればあるほど重く、私たちの自由な発想や行動を制約する足かせともなっています。
また、鎧を着た者同士では互いに鎧の中にたどり着くことができず、表面だけの立場トークにとどまるため、真の対話による相互理解には到達しません。
自己紹介ゲームは、自分の属性を語ることを禁止することで、「立場の鎧」を脱ぐことを強制し、素の自分をさらけ出すことで互いの心理的距離を一気に詰めるという手段なのです。
〇〇部長と呼ばないで
自己紹介ゲームによらなくても、立場の鎧を脱ぐもっと簡単な方法があります。
私は職員同士でのオフサイトミーティングでも、全国各地で講座、講演や対話の場でも「今村さん」と呼んでもらっています。
公務員同士であればつい役職者に対しては「〇〇課長」「〇〇係長」という肩書付の呼称で呼びがちですが、私は「〇〇さん」と呼びあうことで統一しています。
さらに私はこの4月から着任した新しい職場で、私は総務部長という肩書ですが部下の皆さんからは部長という呼称を使わないようにお願いし、また私も課長や係長に対し「〇〇さん」と呼び、部内の課長や係長同士も互いに肩書での呼称をなるべく使わないようにと提案したところ、半年経ってすっかり「さん付け」が定着し、職場がとてもフランクな雰囲気になっています。
肩書で呼びあうのをやめると、形式的なものであるにせよ、自分が背負っている立場、職責から自分自身の心が解放され、相手にもまたその解放を許すことになるのを実感します。
そうして互いに立場の鎧を脱ぎ、職責ではなく個人としてそこにいることを互いに認めあうことで、それぞれの心理的安全性が保たれる。
その言い出しっぺになることが、この場での心理的安全性を大事にしたいという表明となり、互いに自己を開示しやすくなる地ならしとなるのです。
ツッコまないツッコミに学ぶ
「対話」の場で心理的安全性を確保するために必要な「拝聴」「受容」を表現するために、もうひとつできることがあります。
対話で自分を開示し、相手を受容する中で、つい起こりがちなのが受容の強制。相手を受容することよりも、自分のことをわかってもらいたいという気持ちが強くなりすぎてしまうこと、ありますよね。
そんなときは自分の価値から離れるために「そもそも」「本来は」「常識的に考えれば」「~すべき」といった言葉を使わないように意識してみましょう。
すっかり下火になりましたが、お笑い芸人「ぺこぱ」の「ツッコまないツッコミ」にそのヒントがあります。
シュウペイの自由奔放なボケを、ツッコミであるはずの松陰寺が漫才の常道であるツッコミのセリフを振りかざしつつツッコまずにすべてを許容する。
このツッコみそうでツッコまないというズレが彼らの持ち味なのですが、実はこのスタイルに重要な要素が隠されています。
ありえないとも言いきれない
漫才の途中、およそありえないことを夢想するシュウペイのボケに対し、松陰寺の常識で言えば「ありえないだろ!」とツッコむところ、そのセリフを発しようとする松陰寺の脳裏によぎるのはシュウペイへの許容。
我々は、ある意見、見解に対し、自分の持っている価値観や常識に照らしその賛否を判断しがちですが、この漫才での松陰寺は違います。
ひょっとすると自分自身の先入観、常識が間違っているのかもしれない。
そう感じた松陰寺は「とも言い切れない」と言い足して、自分の判断をいったん留保しシュウペイのボケを受け入れるのです。
相方を許容することなら右に出るもののいない松陰寺のツッコまないツッコミは自身の固定観念、常識、先入観からの解放がベースになりますが、その裏に感じるのは松陰寺の相方シュウペイへの絶大なる敬愛の念なのです。
対話の基礎は人権尊重
相方の言うこと、やることがどれだけ荒唐無稽でも掟破りでも、何か意味があるもの、価値があるものという前提で受け止め、決して自分の固定観念、常識、先入観で切り捨てない。
そこには、相手を自分と同等の人格として認め、常に公平に平等に扱おうという哲学と、そのためには自分自身の固定観念、常識、先入観を常にいったん脇に置くべしという意思を感じます。
実はこうした「ツッコまないツッコミ」を言葉にすることこそが、相手方への敬愛の念、自分の価値観を脇に置き、相手を常に自分と同等と認め公平平等に扱うという意思の表明。
自分の価値観に基づいた「本来は~すべき」という自己主張を脇に置いていることを言葉で相手に伝えることで、この場では誰の発言、存在も許容されるのだというグランドルールの共有になるのです。
「対話」がうまくいく秘訣はほかにも数多くありますが、テクニックとして学び身に着けるのではなく、互いの人格、人権を尊重するという基本精神をどれだけ腹に据えて発言、行動するのか、ということに尽きると思います。
皆さんも「対話の扉」をくぐってみませんか? きっと新しい発見があるはずです。